2010年1月17日日曜日

ヘボン博士についてのメモ書き その1

ヘボン博士はキリスト教の宣教師でしたが、日本において医療奉仕を通して、最初に西洋医学を紹介した人物といってもいいのかもしれません。また、和英語林集成とヘボン塾を通じて、言葉で日本と世界に橋を架け、さらに、聖書の翻訳で宗教界だけでなく、文学界にも大きな貢献をした人だといえます。

詳しくは、資料を読み始めたばかりで、今書くことができることはあまりありませんが、ひとつだけ面白い記述をみつけたのでそれを紹介します。

今読んでいるのは、望月洋子著『ヘボンの生涯と日本語』新潮選書。望月洋子氏は、作家、東西交渉史研究家で、この著書で、1988年『ヘボンの生涯と日本語』で読売文学賞受賞しています。wikipediaによると、昨年2009年の3月11日に亡くなっていらっしゃるんですね。まだ、最初の方を読んでいるだけですが、読みながら、ヘボン博士の人物像が心に伝わってきて、とっても感動してしまっています。ヘボン博士の人物もですが、これを書いた望月さんの思いも込められているように感じて、この方にお会いしたいなあと思ったりしていましたが、残念ながら、無理なようです。

ヘボン博士は、とっても意思の強い人だっただけでなく、とっても気さくで、また人格的にもたいへん優れた人だったようです。望月さんの本によると、あの有名な生麦事件(薩摩藩の大名行列に誤って紛れ込んだ英国人が行列の護衛の武士に斬り殺された事件)の際に、米領事館に警護のために詰めていた神奈川奉行所の定役人が、まっさきに呼びに走ったのが、ヘボン博士でした。英公使館には、お抱えの医師がいたにもかかわらずです。当時は、神奈川運上所詰めの役人の間では、ヘボン博士は「君子」と呼ばれていたようです。

また、ヘボン博士が日本に永住のために、夫人を伴って日本にやってきて、住居を構えた時に、従僕として便利な中国人を雇うといいという領事の薦めに対して、きっぱりと、日本に住む以上は、最初から日本人と起居を共にし、日本の習慣や言葉になじむべきだと譲らなかったということです。また、ヘボン博士は、実際には原語では、ヘプバーン(オードリー・ヘプバーンと同じです)を、本人はへバーンと発音していたが、日本人がその音を真似られず、訛って「ヘボン」と呼んだのを、いやがらずに素直にヘボンで通し、後には「平文」と漢字で署名するようになったという。そんな風に、細かい事にこだわならい、気さくな人物だったようです。

面白かったのは、ヘボン博士が、裁縫職人を雇うために、日本側に誰か紹介してほしいと依頼をしたのですが、簡単には決まらなかったようです。当時は外国人は異人と呼ばれ、近くに寄ると病気になるとか、またかなりの高給で雇われるとはいえ、言葉は通じないし、思う通りにならないと靴で蹴り飛ばされるから、日本人達はおそれをなしてなかなか仕事を引き受けたがらなかったということでした。ようやく、一人の若い裁縫職人が仕事を引き受けましたが、彼はすぐにヘボン博士や夫人の人柄に感銘を受け、ヘボン博士たちを「仏さま」と言っています。その職人の名前は、沢野辰五郎。18年間ヘボン邸に通い続け、後に日本の洋裁屋第一号となって、皇族のドレスなどを手がけるようになったそうです。実は、その沢野辰五郎が住んでいたのが、なんと私が今住んでいる浅間町なのです!なんだか、不思議な縁を、ますますヘボン博士に感じてしまいました。

幕末から明治にかけて、とっても大きな影響を与えたヘボン博士がまったく人々の記憶から消えてしまっているのはとってももったいないことです。このブログを通じて、少しでも光を当てて行ければとおもいます。そのうち、小説かドラマ、映画にしてみたいとも思ったりしてます!

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